畳縁の歴史は、奈良時代(710年代)までさかのぼります。
たとえば、東大寺の献物帳には「黒字の錦端(べり)畳」と記録されており、その存在がうかがえます。
歴史ある畳縁として挙げられるのが、730年代に作られたとされる聖武天皇の御床。
これは現在、正倉院(奈良県)にて保存されています。
室町時代に書院造りの建築様式が生まれ、家屋にも畳が敷き詰められるようになりました。
当時の絵巻物には、畳職人の姿も描かれています。
畳縁の歴史
明治以前の畳縁は、普通につくられた織布(小幅物)を染色して一定幅に裁断して作られていました。
その後「光輝縁」という、綿糸で作られた畳縁が一般層向けに普及します。
当時の光輝縁の産地としては、主に
・福井県
・静岡県
が挙げられます。
大正10年頃になると、児島唐琴(岡山県倉敷市)の松井武平が、光輝縁の製法を浜松(静岡県)で学び始めました。
その後、岡山でも畳縁の生産がスタートし、名産地となりました。
その背景には、以下が考えられています。
① その他の産地が、需要の低下により転向を余儀なくされた
② 国際情勢の悪化で輸出不振となり、光輝縁が市場性のある製品として注目された
③ 関東大震災により需要が増えた
④ 昭和30年頃から機械の改善が進み、量産化体制ができた
現在は、畳縁の95%以上が化繊で作られており、国内の80%以上が、岡山県倉敷市児島で製造されています。
参照 春日権現記巻十二/Tokyo National Museum
身分による畳縁の柄の違い
平安時代になって、貴族邸宅の建築様式が寝殿造に変わりました。
その結果、板敷きの間に寝具として畳が敷かれるようになったのです。
当時、身分によって畳の床や縁についての規定がありました。
たとえば、寝殿造りの建物である京都御所の清涼殿では、繧繝端(うんげんべり)が用いられています。
繧繝端の織はもともと、仏教とともに朝鮮半島から伝わってきました。
モチーフは、菊花や雲形。
ちなみに、ひな人形の内裏様が座っている畳の縁も繧繝端です。
このように、身分によって畳縁の柄を変える慣例は、江戸時代まで続きました。
位によって違う畳縁
繧繝端(うんげんべり):帝王や院、神仏前の半畳に使われていた紋様、最高位
大紋、高麗端(だいもん、こうらいべり):親王や大臣が使っていた紋様:帝王や院、神仏前の半畳に使われていた紋様、最高位
小紋の高麗端:大臣以下公卿